室井尚『哲学問題としてのテクノロジー』

技術は身体の拡張であるという話から、話の多くが情報社会の話に割かれる。情報伝達ネットワークの複雑化と、マスメディアの繁栄。近代では知的主体が技術を用いて環境と対話していたが、現代では情報の氾濫によって人間もシステムの中の記号へと溶けていく。その中で人はいかに生きるべきか。

 

近代の(理想化された)主体は自由だった。技術によって社会を構築する主体として、自分の生の営みを無二の経験として物語ることができたのだから。21世紀の人間は、情報の濁流の中で常に自分の生の営みをあまたの記号の中に相対化されながら生きている。

もし、「生きる」ということ、それがただ「生きている」というトートロジーによってしか語られなくなってしまえば、多分、人は生きる意味を失ってしまう。

著者は最終的にシステムにも記号にも掌握/解体されきることのない、己の身体性によって生の領域を確保すべきだというような着地点を提示する。しかし、知識や言説までもがグローバル社会のミームに還元されてしまう状況を、著者はある種の悟りのような、シニカルで俯瞰的な視座から語っていて、人間の生きる意味なんて畢竟幻影だ、と言いたいのを抑えているのではないかと不安にさせられる。
生きる意味を考えること自体が思春期的だけど、著者の雰囲気は、そう、年齢が一回り上の、クールで斜に構えたお兄さんって感じだった。