大岡昇平 『野火』 要約

頁をめくるために目をそむけていた。

主人公の田村は、小説の始まりとともに、生きる望みを絶たれる。戦争も末期、肺病を患った彼にはレイテ島山中の前線に居場所はなく、食糧を持たされなければ野戦病院にも居場所はない。

一章「出発」
「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」
 兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁止されていたが、この時は見逃してくれた。

兵士としての役割も失った田村は、一兵卒からフィリピンの森に投げ出された「平凡なただの男」として存在せざるをえないなかで、「死を前提とした生」と「孤独」に向き合うこととなる。

日常感、目の前にあるものが無限にくり返しうる予感がひとつづつ剥ぎとられ、そのたびに主人公は、つね日ごろ我われが想起する程度の"人間としての尊厳"を支える基盤を失っていく。眼前の死と僅かな生の望みを交互にくり返し突きつけられ、彼は、たびたび訪れる「天啓」をもとに、己の死を前提とした生の在りかたを模索する。

九章「月」
 私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私はすでに死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。
 この逆説的な結論は私を慰めた。私は微笑み、自分は既にこの世の人ではない、従って自ら殺すには当たらない、と確信して眠りに落ちた。

また十四章の「降路」では主人公は、自分が林の中で感じた反復(デジャヴ)の感覚を、死に前方の視界を閉ざされたために、日常生活のもつ生命の持続と反復という感覚を自分が後方に投影しようとしているのではないかと考える。主人公はそこに運命によって死に支配された生命の飽くなき生存の願望を見いだし、その発見に生を実感し満足してしまう。

それは非常に倒錯的に映るが、しかし、世には浄土信仰にせよキリスト教にせよ、そういった死と生の顛倒したありかたは普遍的に存在している。彼が少年時代に教わり記憶している聖書の文言の残滓が彼の思考の足がかりとなる。

二章「道」
 私は死の前にこうして生の氾濫を見せてくれた偶然に感謝した。(略)。その時私を訪れた「運命」という言葉は、もし私が拒まないならば。容易に「神」とおき替え得るものであった。

十三章「夢」
「われ深き淵より汝を呼べり。主よねがわくはわが声をきき……」
少年の時暗誦した旧約の詩句が頭の中で翻った。

しかし彼が確かに存在を感じた神は、隔絶された島の中で、日本軍、フィリピン人、米国兵のすべての人間からも孤立した存在の作りだした幻影なのだろう。意識の中に他者の存在を失ったかれは、自分をめぐる外界と自分の内面との境界が曖昧になり、己を俯瞰する無意識が外在的な神として感じられたのではないか。そして語る言葉を借りてはいるが、死の先が存在しない彼の思索はキリスト教のものではない。

教会のある村でフィリピンの女を殺してしまう。それは兵士としての肉体(銃は肉体の一部だし、ついでに言うと兵士は軍の肉体だ)が犯した罪であり、魂が肉体に紐づけられている限り、その魂と肉体とが罪を犯してしまうことに彼は気づく。そしてその罪の意識が、彼が米軍に投降することを許さず、人間世界へ戻る可能性を決定的に断ち切ってしまう。

少年期に感じた罪の意識は、性愛に関するものであり、いかに生きるかという問題意識だった。しかし己が生きようとすることで必然的に他者の命を奪ってしまうという根源的な罪の意識は、彼の生命としての存在意義を否定してしまう。もちろんこれは死を運命づけられた人間の論理であることは忘れてはいけない。

人間としての在りかたを問い続けた彼には、どれほど飢え、己の血をすする蛭を口にしようとも、ついに人肉食を行うことが出来ない。人の肉を食べれば今まで己を保っていた存在の論理が崩れてしまう。彼は自然に身を捧げる恍惚を知る。
彼は人肉食をもって人格を歪ませた永松を殺す。

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『野火』は小説である。小説的ノンフィクションでもなく、作者の体験をただ読解可能な話に加工したものでもない。筋書きは少しずつ段階的に男を被覆するものを剥ぎとるために、きわめて理知的に作られている。男は一どきに狂うことを許されない。読者もまた、散々に気を滅入らせながらも地獄の階段の終着点に相対させられる。

三十七章「狂人日記
 現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

過去にあった戦争を知ろうともせずのん気に生きることの不誠実さを非難するだけではない。彼は純粋に一個の存在として不完全な状態なのだと断ずる。人間として生きるということは如何なることかを煎じ詰めたことのない半人前の人間達が、戦前を捨て去ろうとしている。

主人公は意識の暗転ののちに、気づけば終戦を迎えている。戦時下の尋常ならざる感覚を終結させられることもない彼には、遠からず訪れる死と現在の間を埋める日常の感覚がない。一時感じた神を想いながら、ただ孤独に存在することしかできない。