中島京子『小さいおうち』

山手の小さな洋館の、美しい若奥様と女中。時のふるいにかけられた回想記は、日記の規則的なリアリズムとはまた違って美しい。

その後の故郷山形の暮らしが入ることで話が豊かになったと思う一方、現在の甥の子とのやりとりは少し荒業という感じがした。「おばあさんの回顧録」だけではたぶん小説として自立できないのだろうけど。

井上ひさし『東京セブンローズ』

ひとかけらの大切な記憶を除けば、人の記憶はあっという間に風化してしまう。たとえば、目の前の生活が大変とき、新しい恋を始めたときには。ひと時口にした思考も思想も、深く根を下ろさないものは揺らいでしまう。しかし、書いて残した言葉からは、数か月数年後でも折々の思考を手繰り寄せることができる。

根津の団扇屋の主人、山中信介は、戦時下も戦後も日記を詳細につけつづけていた。だから彼は、自分の過去の姿を絶えず振り返らざるを得なかった。戦時中は軍部のやり方には距離を置いていたし、戦後はGHQに突然おもねり始めた日本人に疑問を抱いた。変化する社会のなかで最も保守的な所に立ちつつ、確固とした思想をもたない凡人なりに「考える人」であった。ものを考えるだけの経済的余裕もあった。

ところが、家庭においてはそうはみなされなかった。戦後の山中家で娘たちが食い扶持を稼ぎ始める(どころかGHQの知己から高級食料品まで入手し始めてしまう)と、途端に父は「過去の遺物」のような扱いになってしまう。経済的な依存が終われば、子供たちには彼の戦後の頑張りは空回りにしか見えないし、だから戦前の「父権の空回り」と重なってみえてしまう。(実際、1年の半分くらいを牢屋で過ごしてしまった人が家庭内で現実的にどういう役割を果たしていたのかと言われると...。)

それはある意味で、国家と家庭の日常が直接つながっているということでもある。国家における父権の卓越と崩壊は、家庭のそれとリンクしていた。国家と家庭の結びつきは具体的なものでもあり、象徴的でもあった。

「父さんたちは抗わなかったじゃないか」と清は言っていたけど、その清の眼にはGHQの占領政策はどう映っていたのだろう。清は父の父権を否定しながら、学生達の地下活動に加わる。一方娘たちの、あるいは女たちの戦いは狡くて、体面にこだわった男たちとは違う、恥を捨てても矜持を保つ強かさと賢さを持っている。(そしてこの小説のようなことがもし実際にあったとしても、国家の正史にそれを書き記すことはできない。国の歴史として伝え継いでいくことはできるが。「おかしみ」を武器に戦う井上文学はまさしくそういうことを語れる文学であり、彼の文学と彼の「日本語と日本」論が一体となって生まれたのが本書。)

スマートな次世代が育っていくという希望で終わりつつも、僕らも連載当時の井上ひさしも、高度経済成長の過程でそういった「若者」が政府与党に敗北したのを知っている。

水木しげる 『水木しげるのラバウル島戦記』『総員玉砕せよ!』

水木しげるラバウル戦記』

「このあたりはナンバーテンボーイが出そうだ」というので、ぼくが先頭で、銃に弾をこめて歩かされる。

   いちばん元気そうだからか、それともまっ先にやられてもよいからというわけかな。
   しかし、いちばん前を歩くのは気持ちがいい。」

兵士として派遣されてるはずなのに、水木しげるはヤバいくらいにのん気。
魚雷が来たから見張り台から叫んでも、誰も聞いてくれない。そんなときは「しかたなく、魚雷観察をすることに」してしまう。ヤバい。古兵に殴られまくりながらも、ジャングル暮らしを楽しんでしまう。出会った現地人とすぐに仲良くなっちゃう。そして古兵に殴られる。

彼は最後まで兵士の眼をもたなかった(実際戦ってない)。だから古兵に殴られ、現地人と仲良くなれる。『野火』の眼が「末期の眼」だったなら、これは完全に「ただの眼」。描かれる絵も、何かを強く伝ようとするわけでもなく、林間学校の思い出写真のよう。

 

『総員玉砕せよ!』

「わしも職業軍人のはしくれだ。死に場所を得たいのだ。」

若い将校の"死に場"のために部隊は玉砕する。もう、ただただ意味不明。(ただ、戦中ネイティブ世代の彼は"大人"と違って、死んだ人に対して不義理に生きる方法を知らなかったのだろう。その将校のさらに後ろにはのうのうと生きのびた参謀達がいるのだ)

井伏鱒二『遙拝隊長・本日休診』

このブログをわざわざ読みに来てくれるような人はみんな知っているだろうけれど、井伏は人間の悲哀を書くのがうまい。山椒魚の悲哀を書くのもうまい。そして井伏の悲哀は、どうにも対象の愚かさとともにある。致し方なく愚かな人間が多く登場する。

 

『遙拝隊長』

マレーの部隊で、訓示と遙拝が大好きな小隊長は、ふとした事故から左足を骨折し頭部を負傷してしまう。意識は戻ったものの、故郷へ復員してから徐々に常軌を逸し、田畑や道をうろうろしては人を捕まえては訓示を与えたり、部隊長のごとく振舞う。そして周囲の困惑した視線の中で、敗戦後完全なる狂人になってしまう。

終戦をきちんと迎えられなかった軍人を、大岡は『野火』で周囲から隔絶された精神病院に放り込んだが(田村は生と人間を拒絶していた以上いたしかたない処置である)、「遙拝隊長」の周囲の村人は、彼をそっとあるがままにしておく。聖愚(狐憑き)ということにしてしまうのだ。なかには戦前そのままの遙拝隊長の振る舞いに、激しい憤りを示すものもいる。それでも村人も老母も、彼を狂人としてそのまま受け入れようとする。

あれほどまでに他者を虐げ愚劣と卑劣の限りを尽くした軍人たちも、民間人とはことなる在りかたで傷ついているのだ。井伏の文学はその取り残された人々を愚かさを、優しく滑稽味で包みこんでくれる。

(とまで書いたものの、この小説を読む人間が誰かと言ったらどう考えても遙拝隊長本人ではなく、戦後苦労させらえれた遙拝隊長の周囲の人間なのだ。その周囲の、特に老母のどうしようもない感じを読みとるほうがたぶん正しい。)

 

『本日休診』

 庶民は必死だ。あちらこちらで毎日のごと、事件が起きる。そして産気はだれにも止められない。だから休診の札を出そうが、蒲田の人々は老産婦人科医を頼ってやってきてしまう。

庶民というのは大体困窮している。そして困窮ゆえに、愚かにふるまってしまう。好きでもない男のために入れ墨を入れてしまう。僅かな金のために賭場を開き、生活環境を悪化させる。恥じらいのために診察と治療を拒む。八春先生は東奔西走しながらもそんな困った患者たちを責めない。医師というのは患者に情を寄せすぎてはやっていけない。適度な距離を保ちつつ、全員が生きようとしている時代にはその生命力をちょっと助けてやるだけでいいのだ。それで誰もが救われるわけではないにせよ。

 

大岡昇平 『野火』 要約

頁をめくるために目をそむけていた。

主人公の田村は、小説の始まりとともに、生きる望みを絶たれる。戦争も末期、肺病を患った彼にはレイテ島山中の前線に居場所はなく、食糧を持たされなければ野戦病院にも居場所はない。

一章「出発」
「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」
 兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁止されていたが、この時は見逃してくれた。

兵士としての役割も失った田村は、一兵卒からフィリピンの森に投げ出された「平凡なただの男」として存在せざるをえないなかで、「死を前提とした生」と「孤独」に向き合うこととなる。

日常感、目の前にあるものが無限にくり返しうる予感がひとつづつ剥ぎとられ、そのたびに主人公は、つね日ごろ我われが想起する程度の"人間としての尊厳"を支える基盤を失っていく。眼前の死と僅かな生の望みを交互にくり返し突きつけられ、彼は、たびたび訪れる「天啓」をもとに、己の死を前提とした生の在りかたを模索する。

九章「月」
 私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私はすでに死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。
 この逆説的な結論は私を慰めた。私は微笑み、自分は既にこの世の人ではない、従って自ら殺すには当たらない、と確信して眠りに落ちた。

また十四章の「降路」では主人公は、自分が林の中で感じた反復(デジャヴ)の感覚を、死に前方の視界を閉ざされたために、日常生活のもつ生命の持続と反復という感覚を自分が後方に投影しようとしているのではないかと考える。主人公はそこに運命によって死に支配された生命の飽くなき生存の願望を見いだし、その発見に生を実感し満足してしまう。

それは非常に倒錯的に映るが、しかし、世には浄土信仰にせよキリスト教にせよ、そういった死と生の顛倒したありかたは普遍的に存在している。彼が少年時代に教わり記憶している聖書の文言の残滓が彼の思考の足がかりとなる。

二章「道」
 私は死の前にこうして生の氾濫を見せてくれた偶然に感謝した。(略)。その時私を訪れた「運命」という言葉は、もし私が拒まないならば。容易に「神」とおき替え得るものであった。

十三章「夢」
「われ深き淵より汝を呼べり。主よねがわくはわが声をきき……」
少年の時暗誦した旧約の詩句が頭の中で翻った。

しかし彼が確かに存在を感じた神は、隔絶された島の中で、日本軍、フィリピン人、米国兵のすべての人間からも孤立した存在の作りだした幻影なのだろう。意識の中に他者の存在を失ったかれは、自分をめぐる外界と自分の内面との境界が曖昧になり、己を俯瞰する無意識が外在的な神として感じられたのではないか。そして語る言葉を借りてはいるが、死の先が存在しない彼の思索はキリスト教のものではない。

教会のある村でフィリピンの女を殺してしまう。それは兵士としての肉体(銃は肉体の一部だし、ついでに言うと兵士は軍の肉体だ)が犯した罪であり、魂が肉体に紐づけられている限り、その魂と肉体とが罪を犯してしまうことに彼は気づく。そしてその罪の意識が、彼が米軍に投降することを許さず、人間世界へ戻る可能性を決定的に断ち切ってしまう。

少年期に感じた罪の意識は、性愛に関するものであり、いかに生きるかという問題意識だった。しかし己が生きようとすることで必然的に他者の命を奪ってしまうという根源的な罪の意識は、彼の生命としての存在意義を否定してしまう。もちろんこれは死を運命づけられた人間の論理であることは忘れてはいけない。

人間としての在りかたを問い続けた彼には、どれほど飢え、己の血をすする蛭を口にしようとも、ついに人肉食を行うことが出来ない。人の肉を食べれば今まで己を保っていた存在の論理が崩れてしまう。彼は自然に身を捧げる恍惚を知る。
彼は人肉食をもって人格を歪ませた永松を殺す。

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『野火』は小説である。小説的ノンフィクションでもなく、作者の体験をただ読解可能な話に加工したものでもない。筋書きは少しずつ段階的に男を被覆するものを剥ぎとるために、きわめて理知的に作られている。男は一どきに狂うことを許されない。読者もまた、散々に気を滅入らせながらも地獄の階段の終着点に相対させられる。

三十七章「狂人日記
 現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

過去にあった戦争を知ろうともせずのん気に生きることの不誠実さを非難するだけではない。彼は純粋に一個の存在として不完全な状態なのだと断ずる。人間として生きるということは如何なることかを煎じ詰めたことのない半人前の人間達が、戦前を捨て去ろうとしている。

主人公は意識の暗転ののちに、気づけば終戦を迎えている。戦時下の尋常ならざる感覚を終結させられることもない彼には、遠からず訪れる死と現在の間を埋める日常の感覚がない。一時感じた神を想いながら、ただ孤独に存在することしかできない。